「母という呪縛 娘という牢獄」は、滋賀医科大学生母親殺害事件をテーマにしたノンフィクション。滋賀医科大学生母親殺害事件は「医学部を9浪した娘が、教育虐待していた母親を殺した事件」として記憶している人も多いと思います。母親を殺害後、娘がTwitter(当時)に「モンスターを倒した。これで一安心だ」とツイートしていたことも話題になりました。
事件のあらましはこうです。
2018年、両手両足・頭部がない体幹部だけの遺体が河川敷で発見された。その後の捜査で、遺体は58歳の女性と判明し、その女性と2人暮らしをしていた31歳の娘が死体遺棄容疑で逮捕された。娘は遺体遺棄と遺体損壊はすぐに認めたものの、母親は自殺したとして「殺害」は否認。
しかし一審の大津地裁で懲役15年の判決が言い渡されたときの裁判長からの言葉(と父親の言葉)をきっかけに、殺人を認める陳述書を作成。二審の大阪高裁で自らの犯行を認めた。
読んでいろいろ思うところがあったので、備忘録的に書き残しておきます。
自分(母親)が不幸なのはすべて娘のせい、という被害者意識
「母という呪縛 娘という牢獄」は、司法記者出身のライター・齊藤彩さんが、獄中の娘と交わした往復書簡をもとに、母親と娘の30年にわたる生活を再現したものです。
本文中には、母親と娘のLINEでのやりとりが大量に掲載されています。殺人事件の加害者(=娘)の言い分だけを鵜呑みにするわけにはいきませんが、LINEの文面は加害者の信用度とはまったく関係なく、母娘が事実として行ったコミュニケーションの記録です。
この文面が本当にしんどい。
母親からの罵倒、命令、蒸し返し、脅迫、否定……途中で何度も読むのを中止しました。
赤の他人で、自分に向けられたわけでもないLINEがこれほどしんどい。母親から直接、それも長年にわたって送られていた娘のつらさは想像すらできません。
本を読み進めるうちに、なぜこの母親は、娘が自分の願いを叶えて当然だと思ってるんだろうという疑問が湧いてきます。
娘が自分の思い通りにならないと怒り狂う。相手への要求がはちゃめちゃに強くて、「自分が正しい」「こうあるべき」という固定観念もかなり強固。「こうあるべき」が母親自身に向くならまだしも、「娘はこうあるべき・こうするべき」と他者に固定観念を押し付ける。娘が自分の意思と考えを持つことを許さない支配欲……。
荒んだ家庭になったのも、自分がつらいのも、不幸なのもすべて娘のせいだと思っていることから、自分(母親)は徹底的に被害者という意識がLINEから垣間見えます。
下記は、母親から娘に宛てたLINEです。2017年10月に娘が助産師模試D判定になった際のものです。
ラインを読み返しながら、今更ですが根本的な疑問に突き当たりました。1年前に大学内の助産の選抜試験に落ちた時、私に責められて「だって助産師になりたい訳じゃないもの」と言い放ちましたよね。その後、私に押し切られる形で改めて助産学校の受験・合格を“無理強い”されて、嫌な条件でも受け入れ“させられ”ました。そしてこの度、またも失敗して、やはり「無理強いされてるのでやる気になれなかった」と。中高も今も、“無理強いでは自分はやる気が起こらない”という理由で失敗→開き直り→口先だけの条件受け入れ→失敗→開き直り→口先だけの条件受け入れ→失敗→開き直りを継続中です。大学に入れてからも、可に始まって、未だ私の望みは何一つ現実化されていません。この事実を私はどう考えるべきですか??
「母という呪縛 娘という牢獄」P216
「無理強いされているのでやる気になれない」と娘に言われ、それを母親が認識していることがわかります。しかし娘にそう言われてからも、この母親は「娘が自主的に(実際は諦念から)母親の条件を受け入れている」のに条件を達成しないことを責めているんです。つまり、無理強いしてやる気が出ない娘に無理強いしています。あまりにも煮詰まった会話。自分の見栄・体裁・プライドを、親子とはいえ他人である娘に仮託しているのは自分なのに、「未だ私の望みは何一つ現実化されていません」と堂々と言う神経。認知の歪みを感じます。
何度も家出しても母親から逃げ出せないという娘の絶望
この本を読むと、狂気を孕む母親の言動とは対照的に、娘がこの母親から逃避したいと願う気持ちは理解・共感できます(娘の手紙がもとになっている本なので、娘の気持ちが理解できるのは当然ではあります)。
特に娘の諦念はかなり痛々しく胸に迫ります。
母親に反論したり、母親の意に沿わない自分の考えを伝えたりするとどんどんヒートアップするから、母親の望む答え、なるべく刺激しない言葉をLINEに書いているのが読み取れます。それはそうで、母親を怒らせてしまって深夜に土下座させられたり、寝かせてもらえなかったりするのは誰しも嫌ですから。そして、その「母親の望む答え(=医大合格と、それに向けた努力。または母親への献身)」は、娘の本当の考えではないから行動がついてこず、結果的に嘘になってしまい、ますます母親をヒートアップさせます。本物の悪循環がここにあります。
娘がテストの結果を誤魔化したり嘘をついたりするエピソードがあります。自分の成績を正直に伝えてもいいことが何もなければ、嘘をついてワンチャン母親が騙されてくれることに賭けるのは理解できます。
何度も書くように娘の手紙がもとになっているので構造的に当然ではあるのですが、全体的に母親よりも娘に共感が向かいます。
そして、この母親のことは理解してはいけない気がします。
物理的に離れるのが一番いい。それをわかっている娘は何度も家出をしますが、そのたびに連れ戻されます。この本の筆致は淡々としていますが、探偵を使って居場所を特定され、高校卒業後に内緒で就職しようとして内定が出たのに邪魔され、逃げ出せないという絶望がありました。
「家の中」というあまりに強力で閉じられた場で、母娘はどんどん2人きりで煮詰まっていきます。サードプレイスや第三者の介入の必要性を痛感しますが、少なくとも「母という呪縛 娘という牢獄」からは2人に他者が介入した様子は読み取れません。
一番ゾッとした“置き手紙”のエピソード
一番「怖い!」と思ったのは、170ページの「あかりの置き手紙」の箇所。
これは一見、あかり(「母という呪縛 娘という牢獄」での娘の仮名)が家出前に母親に宛てて書いた置き手紙のように読めます。
自分の幼稚な行動で母親を困らせたことへの反省、センター試験と医大の2次試験が終わるまで家を離れるが必ず帰ってくるから心配しないでほしいということ、母親の献身への感謝、それに応えられない自分への恥ずかしさ、母親の苦しみの“諸悪の根源”は自分だということ、自分が母親を大事に思っていることが切々と書かれています。
私は「ここまで自分を卑下して母親を持ち上げて、母親の怒りの導火線に火をつけないように気を配りまくっててすごい」「母親の怒りのツボ、母親をなだめるツボが手に取るようにわかるんだろうな」と思っていました。
しかし、この置き手紙は母親がパソコンで原文を作り、娘に手書きで清書させたものでした(なぜそんなことをさせたのかは本を読んでください)。
これはいろいろな意味で本当にゾッとしました。
「母親の怒りのツボ、母親をなだめるツボが手に取るようにわかるんだろうな」と思ってたけど、そりゃあわかりますよね。母親が書いてるんだもの。
母親は、娘を含めた周囲に、自分は“諸悪の根源”である娘に対して献身的で、“諸悪の根源”である娘からも愛されてると思われたいんだろうなと思いました。歪んだ承認欲求を感じます。
「私か母のどちらかが死ななければ終わらなかったと現在でも確信している」
正直な気持ちを書くと、「母という呪縛 娘という牢獄」に書かれている娘の言い分をすべて信用できるかというとそうは思っていません。殺人事件という部分のみを見れば、加害者は娘で、被害者は母親。加害者の言い分だけを信じるのは危険です。この本の中でもたびたび書かれているように、娘は嘘をつくことに慣れています。成績表の改ざん、バスの乗車券偽造(書類送検されている)、母親の死から2年間、警察にも検察にも「殺人の否認」をし続けたこと。表現として適切ではないかもしれませんが、小説でいう“信頼できない語り手”をどことなく思わせます。
でも、それでも「娘がモンスターから解放されてよかった」と思いました。
娘の陳述書を一部抜粋します。
母は私を心底憎んでいた。私も母をずっと憎んでいた。「お前みたいな奴、死ねば良いのに」と罵倒されては、「私はお前が死んだ後の人生を生きる」と心の中で呻いていた。
何より、誰も狂った母をどうもできなかった。いずれ、私か母のどちらかが死ななければ終わらなかったと現在でも確信している
「母という呪縛 娘という牢獄」P55-56
「私か母のどちらかが死ななければ終わらなかった」という究極の2択にならないことが望ましいのは当然ですが、虐待したほうとされたほう、どちらかしか生き残れないならされたほうが生き残ってほしい。そう思いました。
[2023/9/17追記]
現代ビジネスに、第45回講談社本田靖春ノンフィクション賞の講評が掲載されていました。
「母という呪縛 娘という牢獄」は第45回講談社本田靖春ノンフィクション賞にノミネートされていたので、講評が載っています(受賞作は伊澤理江さんの「黒い海 船は突然、深海へ消えた」)。
ノンフィクション作家の魚住昭さんは、「母という呪縛 娘という牢獄」について
内容の大半が、娘と母のLINEのやりとりや娘本人の手記の引用もしくは焼き直しだ。それで真実に迫れたのだろうか。当事者の証言だからといって正しいとは限らない。真相の解明には祖母や父親らの徹底取材が必要だったはずだ。緻密さの欠如が惜しまれる。
https://gendai.media/articles/-/116258?page=3
と書いています。私は焼き直しとは思いませんでしたが、「真相の解明には祖母や父親らの徹底取材が必要だったはず」という言葉には頷きました。このブログで「加害者の言い分だけを信じるのは危険です」と書いた通り、加害者である娘サイドの取材がほとんどだと感じたからです。
同じくノンフィクション作家後藤正治さんは、
一歩引いた地点からの、取材や記述を盛り込むことはできなかったか。
https://gendai.media/articles/-/116258?page=4
最相葉月さんは、
母親も虐待の犠牲者だろうが、祖母らへの取材がないため一方的という印象は否めない。同様の虐待を受けても大半の子は親を殺さない。なぜか。
https://gendai.media/articles/-/116258?page=5
と書いていました。やっぱりそこは気になるよな〜と思います。
とはいえ、「母という呪縛 娘という牢獄」の迫力は凄まじいものがあります。一読の価値があるという思いは変わりません。